△”しきい値”と”バッファー”が私たちの安全を支えているのでは

●日航トラブルをめぐって(朝日新聞:かがく批評室)
 水は100℃、ヘリウムはマイナス269℃で沸騰し、カエルは気温10℃以下になると冬眠に入る。物事には、それまでとはちがう反応が起きるギリギリの値がある。そういう値のことを、化学や技術の世界では「しきい値」と呼ぶ。学生時代に実験室に入っていた人は、いろんな場面で耳にしてきた言葉だろう。
 このところ、日本航空のトラブルが多発している。部品の経年劣化が原因なのか、作業体制に問題があるのか詳しいことはわからない。しかしトラブルのニュースを見るたび、経営合理化の記事を読むたび、つい「しきい値」を思い浮かべる。仕事にも、作業内容や労働時間などの条件が一定の値をこえると、集中力の低下を招く「しきい値」があるはずだ。(ノンフィクション作家  中野不二男)

●空間的・時間的バッファー(中日新聞:サロン)
 理系の私がよく使う用語に、バッファー(buffer)がある。もともと「衝撃や苦痛を和らげるもの」という意味なのだが、さまざまな場面で使われてきた。
 高校の化学では、酸性とアルカリ性を示すpHを一定に保つ溶液として登場する。生物や化学物質にはpHに敏感なものが多く、その制御が必要だからだ。人間の体内でいえば血液がそうで、外から異物が入り込んでも、致命的な影響が生じない働きをする。
 また、コンピューターのシステムで、データを一時的にためておく記憶装置に用いられる。さらに転じて、調停役をする人の意味でも使われる。人間関係を潤滑にする人物を指し、これが国家のあいだでは緩衝国という用法になる。バッファーの使用例はたいへんに広い。
 私自身は、空間的バッファーと時間的バッファーという使いかたをする。仕事部屋に資料があふれないためには、空間的なバッファーの確保が必要だ。
 たとえば、机の上に一時的にものを置くスペースをあらかじめ作っておく。ものがあふれかえった仕事場では、書類を広げることすらできないからだ。
 最初に、資料が自由自在に移動できるシステムを準備し、複数の仕事を同時並行にこなしてゆく。空きが多いほうが、明らかに知的生産のスピードアップにつながる。
 バッファーの用意は、時間の上でも重要だ。たとえば、原稿の締め切り日が決まったら、少し早めに書き上げておく。そして余った時間に、ゆっくりと中身を熟成する。
 こうすると、バッファー時間は、すでに書き上げた内容がどんどん改善される楽しみになる。締め切りに追われながら書いていた時には出てこないような、斬新な発想も生まれてこよう。
 空間的な、そして時間的なバッファーを差しはさむ方法は、非常に便利な理系的技術である。私の経験では、バッファーを全体の一割ほど確保しておくのが理想的だ。すぐにできる簡単な作業から、バッファーを入れてみてはいかがだろうか。  (京都大学大学院 人間・環境学研究科教授 鎌田 浩毅)

○前回のエントリーで、「乱暴に言えばコストと安全は比例する」と指摘したが、今回のプール事故に限らず、このところの事故やトラブルのニュースを見るたびに、つくづくコスト・効率一辺倒の施策により私たちの安全が脅かされているという実感を抱く。

 もちろん、これまでの仕事・組織のあり方を見直し、本当に無駄な部分があれば削ることも必要であり、ある程度はコストや効率を追求するのは当然かも知れないが、頻発する様々な事故やトラブルを通じて、私たちはそうしたコスト・効率重視にも限度があるということも学ばなければいけないのではないだろうか。

 始めに紹介したのは、2005年4月19日付けの朝日新聞(夕刊)に掲載されていたコラムだが、事故やトラブルを起こしたケースは、いずれもこの”しきい値”を超えていたのではないかと思われる。
 ただし、残念なことに私たちはそれを具体的に証明する術を持っておらず、あくまで経験則でしかそれを語れないということである。

 以前に畑村洋太郎先生が研究する「失敗学」のセミナーを受講したことがあるが、その際に「どうやって”しきい値”を具体化して安全を担保していけばいいのか」と質問したところ、講師の方からは「現場で働く者の中から安全に関する専門家を養成し、彼らに権限を持たせることが必要」との回答をいただいた。

 つまり、現場から技術に詳しく口うるさい専門家を引っ張り出してきて、彼らに安全に関する権限を持たせ、ともすれば「まだコストカットできるだろう、効率化できるだろう」と考えがちな管理・経営責任者の暴走を、安全を担保できる”しきい値”の手前でくい止めることが必要と言うことだと思う。

 ただし、これは現場と経営が同じ組織であれば可能だが、例えば今回事故を起こしたプールのように、施設を運営する組織と現場を預かる組織が全く別組織の場合は難しい。
 そう考えると、今回のように人命に大きくかかわる分野においては業務委託が適切だったのか、という根底から見直すことも必要かも知れない。

○一方、後半で紹介する”バッファー”についても、私たちは今一度その重要性を認識すべきではないかと考えている。

 前回のエントリーで「具体的な成果が表だって見えない安全コストをいかに評価するか」「短期的なコスト削減が長い目で見て本当にコスト削減となっているかについて、私たちはもっと検証する必要がある」と書いた。

 ”バッファー”とは言い換えれば”ゆとり・余裕・あそび”のことであり、一見コスト・効率重視とは相反するものである。
 しかし、鎌田教授が説明する「空きが多いほうが、明らかに知的生産のスピードアップにつながる」「バッファー時間は、すでに書き上げた内容がどんどん改善される」のように、空間や時間を”しきい値”ぎりぎりまで切りつめるのではなく、「バッファーを全体の一割ほど確保」した方が、長い目で見れば効率的であり質の向上にも繋がる。

 そのように考えると、一見何の役にも立っていないように見える”バッファー”だが、実は仕事全体の中では非常に重要な役割を担っているとも考えられるわけで、これはなにも空間と時間だけに限らず、あらゆるケースに応用できる考え方ではないだろうか。

○私たちの回りを見渡せば、実はこのような”しきい値”と”バッファー”により安全が支えられてる分野ばかりのような気がする。

 そして、事故やトラブルが多発している分野では、行き過ぎたコストカットと効率化により本来必要な”バッファー”までもが失われ、すでに安全を担保できる”しきい値”を超えているのではないか。

 そうした視点で、一つ一つの事故やトラブルを「他山の石」とし、学んでいきたいと考えている。
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by azarashi_salad | 2006-08-02 10:58 | 私説 <:/p>

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