2005年 04月 02日
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☆現役記者のご意見(1)
●『署名で書く記者の「ニュース日記」』の記事(加害・被害・ニュースの視点)より
(△記者の意見、▼私の意見)
△教師は成績資料に記載された児童との関係では加害者
▼ここが「考え方」の分かれ目ではないかと思うのですが、私は、教師には「過失」はあっても彼は「加害者」ではなく、「加害者」はあくまで「車上荒らし」だと思います。
もし、今回の事件で教師を「加害者」として報道するのであれば「『個人情報保護法』施行後は、盗難の被害者であっても『加害者』になる可能性がある」という問題に焦点を当てることが必要だと思いますが、前回の記事では「個人情報保護法」には全く触れられていません。
だから、私やヤースさんは「前回の記事だと問題の本質が伝わらない」と指摘したのですが、記事を配信する側として、本当にこれで読者に問題が伝わるとお考えでしょうか?
△被害品が教師の私物であればニュースとして配信しない
▼今回の記事を配信するにあたって、「車上荒らし」という「刑事事件」よりも「民事事件」の方を重視したとのことですが、これについては前回私が指摘したとおり、ただの「車上荒らし」ではニュースにならないということですね。
そこでお尋ねしたいのですが、そもそも謝罪している教諭に対して、児童や保護者たちが「民事訴訟」を考えるほど怒っているという事実関係を把握された上で、このような「判断」をしたということでしょうか?
少なくとも私には、あの記事内容からは児童や保護者の怒りは読み取れないのですが。
△マスコミとしては教師・児童の関係の方にこそ注目する
▼マスコミは、どうして「教師」という存在を過度に注目するのでしょうか。もしかすると、「教師たるもの聖人君子であれ」というレッテルを貼っているのではありませんか。
もちろん、「センセイ」と呼ばれる方々に高い行動倫理が求められることは理解できなくはありませんが、余りに過剰に「教師批判」ばかりする報道が、かえって教師の行動萎縮(例えば教育委員会や児童、保護者の顔色ばかりをうかがうようになる)を呼び込み、その結果が今日の「教育崩壊」につながっているとは思いませんか?
私のように子を持つ親としては、そのような「ひらめ」みたいな教師ばかりになってもらっても困るのですが?
△ニュース性の判断には、法律的な思考や形式論理ではない要素が加味されている
▼つまり、良い悪いは別としてニュースの取捨選択には、ある程度マスコミの「恣意」が働いているということを正直におっしゃっているのだと思いますが、時には、その「判断」を謝ることもあるのではないでしょうか。
私は、教師もマスコミも人間である以上、「判断」を誤ったり「ミス」をすることもあると思いますが、「ミス」した者を責める報道以上に大事なことは、どうすれば次回から「ミス」をなくすことができるか、という視点からの報道ではないでしょうか。
ブログでは、反省して謝罪している者を更に叩くようなことは余り見かけませんが、マスコミが伝える報道では、今回の記事のように、「ミス」した者を犯罪加害者以上に強く扱う傾向が多々見受けられます。
私は、そのようなマスコミの「批判姿勢」に対する反動が、今日のマスコミ批判につながっているのではないかと思います。
○次回は、『上昇気流なごや』の磯野記者からのメールをご紹介したいと思います。
(△記者の意見、▼私の意見)
△教師は成績資料に記載された児童との関係では加害者
▼ここが「考え方」の分かれ目ではないかと思うのですが、私は、教師には「過失」はあっても彼は「加害者」ではなく、「加害者」はあくまで「車上荒らし」だと思います。
もし、今回の事件で教師を「加害者」として報道するのであれば「『個人情報保護法』施行後は、盗難の被害者であっても『加害者』になる可能性がある」という問題に焦点を当てることが必要だと思いますが、前回の記事では「個人情報保護法」には全く触れられていません。
だから、私やヤースさんは「前回の記事だと問題の本質が伝わらない」と指摘したのですが、記事を配信する側として、本当にこれで読者に問題が伝わるとお考えでしょうか?
△被害品が教師の私物であればニュースとして配信しない
▼今回の記事を配信するにあたって、「車上荒らし」という「刑事事件」よりも「民事事件」の方を重視したとのことですが、これについては前回私が指摘したとおり、ただの「車上荒らし」ではニュースにならないということですね。
そこでお尋ねしたいのですが、そもそも謝罪している教諭に対して、児童や保護者たちが「民事訴訟」を考えるほど怒っているという事実関係を把握された上で、このような「判断」をしたということでしょうか?
少なくとも私には、あの記事内容からは児童や保護者の怒りは読み取れないのですが。
△マスコミとしては教師・児童の関係の方にこそ注目する
▼マスコミは、どうして「教師」という存在を過度に注目するのでしょうか。もしかすると、「教師たるもの聖人君子であれ」というレッテルを貼っているのではありませんか。
もちろん、「センセイ」と呼ばれる方々に高い行動倫理が求められることは理解できなくはありませんが、余りに過剰に「教師批判」ばかりする報道が、かえって教師の行動萎縮(例えば教育委員会や児童、保護者の顔色ばかりをうかがうようになる)を呼び込み、その結果が今日の「教育崩壊」につながっているとは思いませんか?
私のように子を持つ親としては、そのような「ひらめ」みたいな教師ばかりになってもらっても困るのですが?
△ニュース性の判断には、法律的な思考や形式論理ではない要素が加味されている
▼つまり、良い悪いは別としてニュースの取捨選択には、ある程度マスコミの「恣意」が働いているということを正直におっしゃっているのだと思いますが、時には、その「判断」を謝ることもあるのではないでしょうか。
私は、教師もマスコミも人間である以上、「判断」を誤ったり「ミス」をすることもあると思いますが、「ミス」した者を責める報道以上に大事なことは、どうすれば次回から「ミス」をなくすことができるか、という視点からの報道ではないでしょうか。
ブログでは、反省して謝罪している者を更に叩くようなことは余り見かけませんが、マスコミが伝える報道では、今回の記事のように、「ミス」した者を犯罪加害者以上に強く扱う傾向が多々見受けられます。
私は、そのようなマスコミの「批判姿勢」に対する反動が、今日のマスコミ批判につながっているのではないかと思います。
○次回は、『上昇気流なごや』の磯野記者からのメールをご紹介したいと思います。
by azarashi_salad | 2005-04-02 13:22 | 私説
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