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【メディアの公共性について考える(2)】

●前回の記事(【メディアの公共性について考える(1)】)には、kaimさんから(少年非行に関する世論調査)(産経抄「インターネットがテレビや新聞を殺す」)の記事をトラックバックして頂きました。
 またdawnさんと大西さんからもコメントを頂戴しました、どうもありがとうございます。

○そのkaimさんの記事(少年非行に関する世論調査)にTBされていたScottさんの記事(マスコミに期待する「商品」)に書かれていた『「確実な一次ソース」としての役割は万民が認める一方で、社説や記事に付随している「記者の感想」に不満タラタラ、といったところでしょうか。私はよく「事実だけをくれ!その判断はオレが下す!」と思いながらニュースを見ています』という意見に、思わず「そう、そう(笑)」とうなずいてしまいました。

○前回の記事でも書きましたが、災害報道なども含めて国民が必要としている「事実」を伝えるという意味においては、今のマスコミの役割を私も一定評価しています。
 ただし、マスコミ関係の方々が「事実」と「意見」を区別しないまま「国民に伝える義務がある」などと言うものですから、話がややこしくなると思うのです。

 ここにきて、多くの「ジャーナリスト」の方々が、一斉に「メディアの公共性」などと主張する背景について、前回の記事を書きながら私が感じたことは、彼らが「自らの存在意義が問われていることに対して本気で危機感を抱きはじめたようだ」ということです。

 しかし、世の中の「事実」や国民を代表する「意見」を伝える「プロ」であるはずの「ジャーナリスト」の方々は、一体何をそんなに恐れているのでしょうか。
 私は、おそらく彼らの「危機感」は彼らの「仕事スタイル」に起因しているのではないだろうか、と考えています。

○例えば、新聞記者の「仕事スタイル」を例にとって考えてみると、多くの新聞記事において、「政府」や「企業」が発信する情報の垂れ流しや、「意見」を主張する場合でも「政府」や「企業」あるいは「学識経験者」の「意見」の受け売りである場合が、よく見受けられます。

 もちろん、マスコミには『国民にわかりやすく「事実」を伝える』という役割が期待されていますので、決してそれ自体が悪いなどというつもりはありません。
 ただしこの場合、彼らの「仕事スタイル」は、全て頂きものの「情報」を体裁よく加工しているだけで何ら新たな「もの」をつくりだしているわけではない、ということになりはしないでしょうか。
 そして、新たな「もの」をつくる仕事でなければ、いつでもだれでも取って代わることができるということに、ようやく彼らも気がついたのではないでしょうか。

○これに対して、冒頭でも紹介したように、ネットの普及により誰でも簡単に「情報」を手に入れることが可能となった現代においては、マスコミには「事実」を伝えることだけを期待し、「意見」については直接自分の手で伝えたいと考える国民が増えてきた、ということではないかと思います。

 そして、このように直接自分の「意見」を伝えたい国民にとってみれば、マスコミはすでに『「事実」の受信に関しては、本来全ての国民に知る権利があるはずの「情報」を勝手に取捨選択し、「意見」を発信する場合には、その影響力の違いにより個人の「意見」を埋没させる「やっかいな存在」』になりつつあるのではないか、とすら私は思うのです。

 もちろん、上で述べたように自ら「意見」を伝えたい国民ばかりではなく、マスコミに「意見」を代弁して欲しい国民もまだ多くいるとは思いますが、そうであれば、どちらも同じ「意見」なので双方の「意見」を平等に扱って欲しいと思うのです。

○先に述べたように、もしマスコミが抱いている「危機感」が彼らの「仕事スタイル」に起因しているのであれば、彼らには、これまでの「仕事スタイル」を守ろうとするのではなく、国民の変化に対応した「仕事スタイル」に自ら「変革」していくことが求められていると思います。

 このブログでは、以前から「参加型ジャーナリズム」のテーマについてとりあげ、例えば新聞の「社説」や「読者の声」といった一部でいいからブログにして、読者と双方向のコミュニケーションを確立してはどうか、と訴えて続けてきたのですが、残念ながら未だに実現には至っていません。

 しかし、特にマスコミ関係の方々は「テレビやラジオは公共財だ」と主張するのであれば、少なくとも「意見」を伝えるメディア(道具)については、もっと広く国民に開放するべきではないでしょうか。

by azarashi_salad | 2005-03-26 15:24 | 私説 <:/p>

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