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【メディアの公共性について考える(1)】

●先日の記事(▲「ものづくり」の価値を見直そう)にトラックバックしてくれたdawnさんの記事「産経抄」に、「メディアとは、媒体、手段、特にマス・コミュニケーションの媒体」(広辞苑)である。要するに単なる道具である」「消費者が欲しいのは情報(報道情報もあればエンタテイメントもある)なのであって、媒体(道具)ではないだろう」と書かれていますが、もっともな指摘だと思います。
 そこで、「情報」の観点から「メディアの公共性」について考えてみたいと思います。

○一般に新聞やテレビなどのマス・メディアが伝える「情報」でも、その中身はブログが伝える「情報」と同じように「事実」と「意見」が混在しており、「メディアの公共性」について考える場合も、この「事実」と「意見」を区別することが重要ではないかと思います。

 以前に【ブログ記事の社会的責任について考える】の記事でも書きましたが、私たちがブログに書く多くの文章も、マス・メディアなどから入手した「事実」と、ブログオーナーの「意見」から成り立っています。(もちろん「意見」だけを述べるブログや「事実」だけを伝えるブログもありますが)

 一方、多くの既存ジャーナリストの方々が「メディアの公共性」を主張する新聞やテレビが伝える「情報」にしても、誰が伝えてもほぼ同じ内容となる「事実」もあれば、「論説」や「社説」のように、個人や組織の「考え」をつよく反映した「意見」もあるわけです。(このへんは各紙の「社説」を読み比べるとよく分かります)

○しかし、そもそも現在のマスコミが伝える「事実」にしても、その大半は記者クラブに代表されるように「政府」や「企業」から入手した内容を垂れ流しているにすぎず、マスコミが自らが発掘した「新たな事実」がどれだけあるのか、私には疑問です。

 加えて、こうした「事実」に関して「論説」や「社説」の中で「意見」を主張する場合でも、その「意見」のベースとなる「考え」は、「政府」や「企業」あるいは「学識経験者」たちの「意見」の受け売りである場合が多く見受けられ、地道に勉強した上で自らの「意見」を主張するジャーナリスト達がどれだけいるかについても、疑問に思えて仕方がないのです。(新聞記者は忙しすぎてそんな暇がないのかも知れませんが)

 プロ野球ストライキ問題で、読売新聞が自らの「社説」において手前勝手な「意見」を主張し、多くのブロガーたちから反感を買ったのは記憶に新しい出来事です。
 今回は、産経新聞が3月18日付けの「産経抄」で同じようなことを繰り返しているそうで、こうした事実を続けざまに見せつけられれば、いくらジャーナリストの方々が「メディアの公共性」なんて主張しても、市民に受け入れられないのはある意味当然の結果といえるのではないでしょうか。

○このように考えてみると、私を含めて多くのブロガーたちが、既存ジャーナリストの方々の『マスコミが伝える情報には「公共性」がある』という主張に違和感を抱く最大の理由は、客観的な「事実」だけではなくて自らの「意見」も含めて「公共性」がある、と主張しているように聞こえるからではないかと思います。(記事の取捨選択や見出しなども形を変えた「意見」といえるでしょう)

 つまり、マスコミが伝える「論説」や「社説」も、その影響力の違いこそあれ、本質的には私たちがブログで主張する「意見」と何ら変わるものではないのですから、「意見」については本来「公共性」なんてものはなく、「公共性」は、誰が伝えてもほぼ同じ内容となる「事実」に対してだけ確保されていればいいのではないでしょうか。

 そして、その「事実」を伝えるための道具としては、ネットや新聞、ラジオ、テレビなど、選択肢が多ければ多いほど、情報を受け取る市民の側としては使い勝手が良いのではないかと思うのですが。

by azarashi_salad | 2005-03-25 15:23 | 私説 <:/p>

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