▲「コミュニケーション」が廃れ「ノイズ」が溢れる

●日本の騒音問題に思う~NZからの一時帰国時から(11月1日11時42分配信 ツカサネット新聞)
 一時帰国時の率直な感想として、日本はうるさい。自分の意図に反して耳に入ってくる音の何と多いことか。
 自動販売機が「アリガトウゴザイマス」とお礼を言ってくれる。店のドアが「ピンポン、ピンポン」と来客を迎える。トラックは「バックシマス、ゴチュウイクダサイ」と、わざわざ教えてくれる。公共交通機関の中では、駅と駅との間のわずか3分に「ゴジョウシャアリガトウゴザイマス」に始まって、車内での注意事項だの、近辺の店や見所などを延々と紹介してくれる。そのほとんどが、電子合成音だ。
 善意で始められた「サービス」なのだと信じたい。無機質な機械からモノを買うのは味気ないだろう、とか、お客様に「すいませーん」と店の奥まで声を掛けさせる訳にはいかない、とか、事故にならないように、マナー違反が少しでも減るように、観光客が迷わないように…。
 そう、サービスは善意だ。そうする方が良くなると思う人がいて、それを実施するだけの財力や技術があってこその賜物だ。そして実際、それに救われた人も多くいるのだろう。子供の頃、住んでいた街の中心部の信号が「ポッポー、ポッポー」と鳴くようになった。祖父が、これで目の見えない人たちも道を渡りやすくなったよ、良かったね、と言った。それを聞いた子供の私は、なんだか、何の関係もない自分までもが何となく、いいことをしたような気分になったのを憶えている。
 今、日本中の繁華街で信号は鳴く。そして子供の私のように、「何となくいいことをした気分」になっている人は、どのくらいいるのだろう。実際に街は、視聴覚障害者の人々にとって歩きやすくなったのか。もっと他に解決するべきことが残されているのではないか。「何となくいいことをした気分」は、冷静な問いかけの機運をなくす。そして自転車は歩道に積み上げられて点字ブロックを覆い、立て看板が林立する。
 日本は善意に溢れた国。すべての人が困らないように、すべての人が迷わないように。そうして積み上げられる音の壁をうるさく感じてしまう私は、きっと、他の日本人ほどに親切ではないのだろう。でも、例えば日本で車内アナウンスを聞く度に、自分がずいぶん子供扱いされているような気がしてしまうのは、私だけだろうか。私は別に出来た人間ではないが、「ゴジョウシャアリガトウゴザイマス」って、乗る度に言って欲しいと思うほど、客であることにあぐらをかきたいとは思わない。観光に出るのなら、近辺の見所はたぶん自分で調べると思う。車内では、次に止まる駅がどこなのかさえ確実にわかれば、それでいい。
 便利さには、人間の能力を奪うという側面もある。例えば、皮むき器が普及した時代に育った私は、包丁でジャガイモの皮を剥くのが苦手だ。では、過度のサービスはどうか。やっぱり、人間から何かを奪いはしないか。サービスの名の下に提供される音の壁を遮るには、自分の耳を塞ぐしかない。耳を塞げば、必要なものも心地よいものも、一様に聞こえなくなる。

○ミクシィ日記で「ALWAYS 続・三丁目の夕日」や「オリヲン座からの招待状」が支持を得ているのは、昭和の社会が今の社会が失った「何か」を持っていたからだと思う、と書いた。
 得たものは、行き過ぎたサービスのような気がするが、それと引き換えに失ったものについて考えていたが、多分、このエントリーの「タイトル」のような事なのだろうと思う。

 上の記事では、機械が発するアナウンスを好意的に「サービス」と扱っているが、例えばATMで少し操作にとまどったときに発せられるアラームも含め、こうした機械のアナウンスに感謝の気持ちを抱く人たちがどのくらいいるのだろうか。

 で、これは何も機械に限ったことではなくて、フランチャイズ展開する大手ショップに入ったときも同じ思いを感じることがある。

○相手を見ていないので、誰に向かって言っているのか分からない「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」という言葉もまたしかり。

 本来は、お店とお客の間でお互いが気分良くなるはずのこれらの言葉も、人と人の「コミュニケーション」ではなくマニュアルに従って機械的な音声信号として発せられたら、その言葉に感謝の気持ちを抱く人がどれだけいるのだろうか。

 そう考えると、今の社会は「コミュニケーション」が廃れて「ノイズ」に溢れているのだと思う。

○小島さんブログで、以前に書かれていた「無難な言葉と思った瞬間に、その言葉自体が力を失うと私は思う」とのエントリーも、同じような問題について述べているような気がする。

 このエントリーでは、「毎回、違った言葉を残してくれる」「どこのスタンドでも言う「ありがとうございました」という「無難な」言葉は発しない」とし、マニュアル通りの言葉には力が無いと指摘する。

 しかし、私は上記で紹介したようなマニュアル通りの言葉は、単に力がないだけでなくて機械が発する音声信号と何ら変わりがないので、それは「言葉」ではなくてもはや「ノイズ」に過ぎないと思う。

 もちろん、これらは「ノイズ」を発している方々の責任ではなく、人間をあたかも機械のように見なしてマニュアル通りの行動を義務づけている企業側にも問題があるのだが。
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by azarashi_salad | 2007-11-07 07:29 | 社会 | Comments(2) <:/p>

Commented by 小島愛一郎 at 2007-11-07 12:24 x
ご指摘の通り、ノイズにしか過ぎない状態になってきていますね、一部においては。逆にノイズと感じている人は、私がエントリで書いたように相手を見て、言葉を変えます。そこには言葉に力が生まれます。

結局、相手が人間だということをすっかり忘れ、相対する人間自身が機械になっているようですね。そうさせている企業ももちろん問題ですが、企業の論理に違和感を覚えない人々も社会の変化の現われかもしれません。

そして極端な人がモンスターペアレントなどと教育現場で言われ、無理難題を言うという現実もあります。

言葉が意味を失いつつあるのかもしれませんね。誰かの一言で人生が変わることも多々あったはずなのですが。
Commented by azarashi_salad at 2007-11-08 07:36
♪小島さん、こんにちは。

特に都会では、相手が人間だと言うことをすっかり忘れて行動する人が増えているように思えます。

下の記事にもありましたが、正面から人が歩いてくるのが全く認識できていない人々が如何に多いことか。
●“暴走老人”にならないために‥
http://news.livedoor.com/article/detail/3377286/

また、車内で人の目が気にならないという意識もそうした表れかと思います。

●交通機関での移動中、4割は人目が「気にならない」
http://www.nikkeibp.co.jp/news/flash/550972.html

人だと意識するとストレスで自分が壊れてしまうので、無意識に防御しているのかも知れません。

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