2006年 01月 09日 <:/p>
▽ブログのチカラ。
●このところ、ブログというツールが持つ「チカラ」について、少し「怖さ」を感じるときがある。
○彰の介さんのブログ記事(ネット社会の漠然とした不安)では、「ネットの片隅でひとりごちているこんな小さなブログでも、もしかして、大きな過ちをおこす原因となってしまわないか」と、個人でも情報発信できるブログというツールが持つ「チカラ」についての漠然とした不安を問題提起している。
また、ガ島通信さんのブログ記事(ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない)では、ブログなどのネットがメディア化する事に伴い、ユーザーが好むと好まざるとにかかわらずパワーを持つことになるので、「メディアのパワーと危険性をある程度理解している私には伝わりますが、果たしてネットメディアにかかわる人たちやエンジニアには伝わるのか」と問題提起している。
これらのエントリーは、いずれもブログというツールが持つ「外向きのチカラ」について問題提起したものだが、そうではなくて、私が漠然と不安に感じているのはブログの持つ「内向きのチカラ」についてである。
○私がこのブログを始めてから間もなく2年になるが、この間、ブログで知り合った方々が、人生の大きな転機を迎える場面を何度か目の当たりにしてきた。
そうした方々に対しては「勇気があるなあ」と尊敬する反面、もしかしてブログというツールがその勇気を「後押し」しているのではないだろうかと、ブログという表現するツールが持つ「内向きのチカラ」を何となく感じていた。
そこで、ある方に「ブログという表現するツールのパワーというか、人生の後押しをする「チカラ」が存在するように思えてなりません」とメールしたところ、その方からは「表現することは気づくことと密接であるし、変容を促す「チカラ」である」「ただし、その人の人生に変容が必要でないならば、そもそも表現ということを求めないのでは」との返答を頂いた。
つまり、彼らにはもともと「自分自身あるいはその回りの環境を変えたい」という強い「思い」が存在しており、無意識か意識的かにかかわらず、ブログというツールを使ってそうした「思い」を表現し続けることにより、心の内にある「思い」をより強く自覚したのではないかというのだ。
○こうした「内向きのチカラ」は、ひとが生きていく上で多分に大きな「勇気」を与えてくれる場合が多いと思うのだが、このエントリーの冒頭で「少し怖さを感じる」と書いた理由は、私を含めて、こうした「内向きのチカラ」をきちんと自覚してブログを使用している方ばかりだろうか、と疑問に思ったからだ。
というのも、始めに紹介したようなブログが持つ「外向きのチカラ」については、このブログでも何度か取り上げてきたし、私が訪問するブログでも何度も見てきたが、「内向きのチカラ」については、これまで余り目にしてこなかったような気がする。
(もちろん、ネット上には星の数ほどのブログがあるので、たまたま私が目にしなかっただけかもしれないが)
だから、誰でも簡単に情報発信できるブログというツールは、一方では書き手の心の内にある「思い」を表現できるツールでもあり、それは、時として現実の生活を変えるほどの行動を「後押し」することもありうるということを、あらためて書き留めておこうと思った次第である。
○彰の介さんのブログ記事(ネット社会の漠然とした不安)では、「ネットの片隅でひとりごちているこんな小さなブログでも、もしかして、大きな過ちをおこす原因となってしまわないか」と、個人でも情報発信できるブログというツールが持つ「チカラ」についての漠然とした不安を問題提起している。
また、ガ島通信さんのブログ記事(ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない)では、ブログなどのネットがメディア化する事に伴い、ユーザーが好むと好まざるとにかかわらずパワーを持つことになるので、「メディアのパワーと危険性をある程度理解している私には伝わりますが、果たしてネットメディアにかかわる人たちやエンジニアには伝わるのか」と問題提起している。
これらのエントリーは、いずれもブログというツールが持つ「外向きのチカラ」について問題提起したものだが、そうではなくて、私が漠然と不安に感じているのはブログの持つ「内向きのチカラ」についてである。
○私がこのブログを始めてから間もなく2年になるが、この間、ブログで知り合った方々が、人生の大きな転機を迎える場面を何度か目の当たりにしてきた。
そうした方々に対しては「勇気があるなあ」と尊敬する反面、もしかしてブログというツールがその勇気を「後押し」しているのではないだろうかと、ブログという表現するツールが持つ「内向きのチカラ」を何となく感じていた。
そこで、ある方に「ブログという表現するツールのパワーというか、人生の後押しをする「チカラ」が存在するように思えてなりません」とメールしたところ、その方からは「表現することは気づくことと密接であるし、変容を促す「チカラ」である」「ただし、その人の人生に変容が必要でないならば、そもそも表現ということを求めないのでは」との返答を頂いた。
つまり、彼らにはもともと「自分自身あるいはその回りの環境を変えたい」という強い「思い」が存在しており、無意識か意識的かにかかわらず、ブログというツールを使ってそうした「思い」を表現し続けることにより、心の内にある「思い」をより強く自覚したのではないかというのだ。
○こうした「内向きのチカラ」は、ひとが生きていく上で多分に大きな「勇気」を与えてくれる場合が多いと思うのだが、このエントリーの冒頭で「少し怖さを感じる」と書いた理由は、私を含めて、こうした「内向きのチカラ」をきちんと自覚してブログを使用している方ばかりだろうか、と疑問に思ったからだ。
というのも、始めに紹介したようなブログが持つ「外向きのチカラ」については、このブログでも何度か取り上げてきたし、私が訪問するブログでも何度も見てきたが、「内向きのチカラ」については、これまで余り目にしてこなかったような気がする。
(もちろん、ネット上には星の数ほどのブログがあるので、たまたま私が目にしなかっただけかもしれないが)
だから、誰でも簡単に情報発信できるブログというツールは、一方では書き手の心の内にある「思い」を表現できるツールでもあり、それは、時として現実の生活を変えるほどの行動を「後押し」することもありうるということを、あらためて書き留めておこうと思った次第である。
by azarashi_salad | 2006-01-09 13:33 | 私説 <:/p>