【あの日あの時、民主党政権がやったこと】第4回市民科学者国際会議:谷岡郁子(書き起こし)

私のFBFが書き起こしを送ってくれましたので、ブログに転載してご紹介します。一人でも多くの方に見てもらいたい動画であり、読んでもらいたいテキストです。



みなさん、こんにちは。谷岡です。本当に、今、宍戸さんから重いお話を伺いました。私は、ああ、あの時ああだったのだ、その日私は何をしていたのだろうかと思いながら、お聞きしていたところです。

で、昨日から始まりました、この会議、今日の午前中の。本当に、招待して頂いてよかった、本当に多くを学んだと私自身が思っている。その中で、いかに情報を握っている人たちが、「リスク・コミュニケーション」等と称して、いわば、隠してあげるのは親切だからよ、みたいな形がある。

都合の良い国民に、都合の良い行動をとって貰いたいがゆえに、操作がされる。そして、本来の加害者であるところの人たちではなく、お互いが、被害者同士で、お前が加害者だというような形の構造へ、押し込められていく。こういうトリックと言うものの状況と言うのが露わになっていたと思います。

私は当時、民主党の議員で、与党の議員でした。多くの状況、多分、皆さんとは違うところから見ている立場にありました。大きく見てみれば、多分共犯の1人であったろうと思います。その共犯の1人であったことが「子ども被災者支援法」というものを作るうえで、とても重要でした。

原発事故が起こった時に、ものすごいショックを、当然、皆さんと同じように、受けました。よく友達の議員たちと、話し合っていたのです。使用済み核燃料ってどうなるのだろうね。やっぱり、いろんなことで、チェックをしたり、或いは、燃料換えたりする度に、作業の人たち被曝するんだわね。

でも、それは、どうも大きな「パンドラの箱」に見えました。これ開けてしまうと、議員生活、他のことなど多分考えられなくなる。高校の無償化ということを手掛けたり、私は、若者たち、教育と言うことを、私は教育者としてやってきた中から、それを政治家としての仕事としたいと思って。

実は、頭の隅で気になりながら、原発と言う問題を取り上げてこなかった。それがゆえに、あの事故が起きた時、ああ、私は何ということをしたのだと言うよりも、何ということをしなかったのだ。なぜ、うすうす気が付いていながら、声を上げようとしなかったのだという思いに強く駆られました。

そして、当たり前のことですが、私たちが全く声を上げていなかった結果、何の準備もありませんでした。何かをやろうにも、そのベースになる法律がどこにもないという状況でした。しかしながら、「操作」、ある人々による、「ある種の操作」、「ある方向への操作」というものは、かなり早い段階から、今考えてみて、あったと思います。

例えば、秋になってからしか、私たちには知らされませんでしたが、あの当時、いち早く、実は、チェルノブイリの例に倣って、チェルノブイリ・ウクライナでは、保健省の指示に従って、何千台ものバスを導入して、子どもたちを避難させたと。そのことを伝えた副大臣がいました。

官邸でそのことが話し合われました。そのことは、私は当人から聞いたのだから間違いありません。でも、官邸では、1人の大臣を除いて、関係の大臣、総理を含めて、この、「バスで子供を運ぶ」ということは賛成されませんでした。

他にやらなきゃいけないことがたくさんあった、ということと同時に、とにかくパニックにしたくない、という強い思いがあったと思います。東北自動車道を含めて、ほとんど、あの津波で寸断され、あの地震で寸断されて使えなかった状況の中で、ややこしくしたくないという思いはあったのかもしれませんが、でも、それは却下されたのです。

つまり、その時に、私はそんなことを考えている余裕はなかったのだと与党の議員として思っておりました。あまりに強烈な状況で、陸の孤島が、海の中の孤島に、津波でなってしまって、どこにどれだけの人が、避難していて、どんな病気を持っているのか、一切分からなかった。

一週間、二週間と、そういう状況が続きました。何千カ所、何万カ所と言う避難所に対して、私たちは十分な情報も持っていなかった。どこに何を運んだらいいのか分からないような状況がありました。その訳の分からない混乱の中で、きっと、誰も「子どもを運ぶこと」など考えなかったのだと信じておりました。

秋になって、そうではないことを知りました。話し合ったのです。話し合って「子どもの安全」を棄てるという決意を政府自身がしたのだということを知りました。

これは、私にとって、痛烈な、与党の議員としての打撃になって、その当時から、ここには居られない、共犯ではいられないという思いがあって、いずれ、その後、私が民主党、この「子ども被災者支援法」といわれるものを通した後、出るきっかけになっていたように思います。

みなさんは、どうお考えになっているか分からないのですけれども、例えば、今、申し上げた「バスの問題」。そういうところがある、一方で、スピーディがどこかにあるはずだよと15日ぐらいになって、誰か、議員が言い始めたのですね。そういうことを知っていた人がいた。

それまで、スピーディがあるということは誰も何も言われなかった。で、モニタリングを早くしなきゃいけない、何とか情報が欲しいと言っても、私は、文部科学関係の議員であった訳ですけれども、いくら言っても。随分、いろんな文献をその後読むことになりましたから、何週間目かに、早くストロンチウムを測ってくれ、ということを私はずっと言い続けて、最後までずっと、それを言い続けました。

いまだにストロンチウムと言うものを測っておりません。測るのが難しいことは知っております。しかし、あの、最初の1ヶ月間、2ヶ月間、その余裕がなかったとしても、3年半経って、この科学技術大国において、難しいということは言われていますが、不可能だということは言われたことは一度もありません。

現に、ストロンチウムが東電の水の中に残っていることは、東電がちゃんと測って分かるわけです。測る方法がある訳です。しかし、環境内にどれくらいあるか、子どもたちの周りに、どれくらい取り巻いているか、これが、骨や歯に入ったら、そこからは出てこない。

昨日、小出先生は、セシウム137が一番問題なのだと仰いましたが、多分それは正しいのでしょう。でも、私は、女性の立場として、子どもの母の立場として、常に思うのは、やはり、成長期の子供の骨に入り、歯に入るかもしれない内部被曝の恐れのあるストロンチウム。

そして、一度入ってしまったら、セシウムと違って体外に出すことが、ほぼ不可能であるストロンチウムというものは、大変恐ろしいと思っておりますし、これを測らなきゃいけないということは、ずっと言ってきました。しかし、いまだに測られておりません。

それでいながら、予算がつくところ、或いは、天下り先が見えるところについては、非常に迅速な行動が、一方でとられてきたということが言えると思います。私どもの方から見ると、よく分かることがあります。

除染はビジネスになる。私は、環境バブル、環境というもので、「環境土木の除染バブル」と言い方をしておりますが、環境省は、新しく公共土木、公共事業を担う省庁になったな、そして、その中でも「除染バブル」というものがあるなと思います。

それは、どういうところで、私たちがチェックできるかと言えば、職員、国家官僚の定員が何名いるかと言うところ。予算がいくらつくかも大事なのですが、皆さんが見て頂く指標として、定員がどういう配置になっているか、ということを注目をして頂きたいと思います。

定員を見れば、その事業をどんなふうに国家として考えているかが歴然だからです。例えば、環境省には、この原発事故の以降、270数人の新たな定員が貼り付けられました。ほぼ、ほとんどが、除染活動のためです。土木事業であれ、天下り先というものを確保できるということであります。

二百数十人って、これ、国家官僚でこれだけ今増やしているのは、ものすごいことだということなのです。各省庁に、原発事故対応で、例えば、農水省も含めて、風評被害対策だ、なんだとかいうことで、いろんな定員が貼り付けられたのですけれども。

私が一番面白いと思っておりますのが、財務省と消費者庁の定員の貼り付けの比較です。財務省と言うのは、どういうことで、そういう形の貼り付けが行われるかと言うと、「お酒」というのは、財務省の担当なのです。酒税がそういうこともありまして。昔から、財務省の縄張りということになっております。

この「お酒」の安全をチェックするために6人から8人の新たな定員が増えたのです。消費者庁は、消費者の口に入る、食べ物の安全ということで定員が増えました。3人です。

20歳以上の一部の人しか飲まない「お酒」については、6人とか8人とか言う定員が一方で付き、子ども、赤ん坊を含めて、全ての人に関わる、食べ物の安全ということでは、消費者庁に3人です。貼り付けが行われる。

これが省庁の力関係と言うものであり、そういうものが、国民のニーズに対して優先する、というのが、政治、そして、この国の行政のやっていることだと。こういうことが、議員として裏から、裏にいると見えてくる。そういうことに対して、いくら騒いでも、これ本当に「馬の耳に念仏」。その悔しさの中から「子ども被災者支援法」を作ろうと決意しました。

私にとってものすごくショックな出会い、嬉しい出会いはチェルノブイリ法との出会いです。チェルノブイリの事故から5年後に法律が出来ていた。そしてその、法律の中では、被害者自身の自主的な決断と言うもの、選択権が認められた。

移住するのか、そこに住み続けるのか。住み続けるのであるならば、必要なモニタリングや医療、或いは、きれいな食べ物等、それを確保するためのお金等。外へ出るのであるならば、子どもの教育のための学校や、優先的な職業であったり、住処、そういうものを国が用意する。

そして、1ミリから5ミリまでの、言ってみれば、グレーゾーンになるように。そういう地域では、そういうことができる。5ミリ以上では「強制的な移住」、ということですね。こういうものが決められている。で、私は3月からずっと、わが政府のやることを見てきた。

長い間、鉄のカーテンの向こうにあって、国民の主権なんか認められていない、人権なんか認められていない、人権弾圧の国として、ソ連というものを言い聞かせられてきた、私たちにとって、これは、ものすごいショッキングなことでした。

だって、私たち、どう考えても、ソ連が25年前、25年の差がこの事故の間にありましたから、25年、四半世紀前にやったことよりも、私たちは明らかに非人間的なことをやっている。明らかに基本的な人権と言うものをソ連よりも無視している。

そして、私たちは人権と言うものを全く軽視する国として、ソ連と言うものをバカにし続けてきたのだ、これはいったいどういうことなのだ。それでいいのか。だから「子ども被災者支援法」と言うものに、いずれ結実していく法律が必要だと思ったのです。

当時「日本版・チェルノブイリ法」と、私たちが呼び始めていたところのものを、作らなければならないと思いました。そして、いろんな法律をあの時に作っていたのですね。

食べ物の中に要る基準だとか、調停のための組織であるとか、賠償のためのどうのこうのであるとか、或いは、がれきをどうするとか。いろんな法律を作っていく中で、官僚たちは、この法律について手を付けようとしなかった。被災者たちを助けようとしなかった。じゃあ、議員がやるしかないじゃないか、そういう思いで手をつけ始めました。

何度も何度も、これを作らせてくれと言われて、「まだ時期じゃない」とか言われました。いずれ、秋も深まってきた頃「本当に、おまえ、やりたいか」と。当時、プロジェクトチームで、原発対策のプロジェクトチームが出来ていて、私はその事務局にいた訳ですけれども、ボスからそういう風に言われました。

「どうしてもやります」「おまえ、これ政治生命かけないと作れないぞ」と言われて「はい、かけます」と即座に言いました。もう1つ言われたことがあります。「これは、国民運動にしていかないと、できないぞ。外にいる、国会の、永田町の中で出来るようなものじゃなくて、永田町の外の人と手を携えてやらないと、できないぞ」と言われました。

その通りだと思います。「では、そのように致します」。そんな中で出会って行ったのが、今のサフランの仲間たちであったり、或いは、ここに今日もおいでになっている、井戸川さんをはじめとするような、被災者の皆さんであったり。また、宍戸さんの姪御さんである千佳ちゃんたちをはじめとするような、若い仲間たちであったりしました。

だいたい、地元の意見を聞きなさい、住民の意見を聞きなさいと言ったら、村長や町長や市長なんかが聞くのは、60代70代のおっちゃんの意見ばかりです。それが、住民の代表者なる者です。でも、この事故に関して、本当に聴かなければいけないのは、これから長く生きていかなければならない若者たち、小さい子供を持つ母親たちです。

こういう人たちの意見は、ほとんど吸いあがって来ない。わざわざ、そういう人たちに国会へ来てもらって、彼らの気持ちと言うものを聴きながら、涙なしには聞けない話がたくさんありました。そういうものの思いと、そして、希望の積み重ねの中から、条文を作っていきました。

当時、他の党も、例えば、川田龍平君たちが、阿部知子さんたちと一緒に、とにかく、健康の、子どもの健康の問題と言う形で、かなり法律を作ろうとしていた。また、実際に、公明党だとか自民党だとかということで、子どもの給食云々ということで考える、考えられていた。

私たちは与党でしたから、そういうものを全部、枝として受け入れられることが出来る、そういう法律を作ろうとしたのです。いずれ、1つの、1本にまとめる必要性がある。この問題は、生活の多岐にわたる問題になるであろう。

避難をする、もちろん、職業の問題になり、住居の問題になり、食べる物の問題になり、医療になり。その医療の中でも、治療と検査と予防とに分かれていくような問題になる。この枝というものを全て受け入れることができる、では、柱は何になるのか。

この基本的な戦略の中で、考えられたことがいくつかあります。それを、申し述べたいと思います。

1つ、福島県に限られないこと。これを県境内に押し込めるということが、ずっとやられてきた。これは、福島県の問題ですよ、他の所は関係ありませんよ、ということで、福島県と話し合ってますから、ということで、ずっと本当の問題を覆い隠してくるということがありました。

そうではない。べつに、プルームは、放射性物質は県境を越えることなんか遠慮していない、ということは明らかでありましたから、やはり、全ての人が支援をされる可能性と言うものを継いで行かなければいけない。

ですから、この法律はものすごく長いタイトルで、今も聞いたのだけれども、結局、私自身が覚えきれないようなもので、え~と「東京電力原子力事故により被災した子供をはじめとする住民~~」、云々かんぬんがあって、そういう人たちを支援する法律になっているのですけれども、「福島」と言う言葉は、一言も入っていません。「福島」と言う言葉を避けました。

これ、「福島の問題」ではないです。私たちの問題です。日本人の問題であると同時に、「地球の市民としての問題」でもあります。「未来の世代のための問題」でもあります。それを押し込める。そして、福島に散々操作されたという現状も、もう1つあるのです。

例えば、具体的な例で、先ほどの、宍戸さんの続きでやりましょう。20ミリで、20マイクロでも全然オーケーだ、みたいな形の中で、100マイクロ、100ミリでもオーケーだ、みたいな話が現場に下されていた時に、じゃあ、この永田町の側で、どんな話が聞こえてきたかということなのです。

斑目さん、あの有名になりました、原子力安全委員会の斑目委員長が、「学校の再開は、10マイクロ、年間10ミリシーボルトということで、基準にしたい」ということをおっしゃったのです。私たちは、5ミリにしたいということで、必死になって、議員の仲間で頑張っておりました。

どういうことかというと、ICRPで、20ミリ以下に事故直後はしなければいけない、出来るだけ低い方へと言っている。だけど、子どものように感受性の強い人たちについては、十分配慮しなければならないと書いてある。

素直にとったらですね、10歳から13歳ぐらいの女の子たちの、感受性の強い所が、約4倍危険性が高いと言われているのだから、20ミリの四分の一にするのが、基本的に妥当であろうということで。そして、放射線管理区域と言うものが、どのように定まっているか。年間ほぼ5ミリということから言っても、5ミリ以下にしなければいけないなということが、私たちの思いでした、当時の。

それで、すごくいろんな文科関係の我々の検討会議の中で、それを主張して頑張っていた訳です。ほとんどの議員で、関心のあった人たちは、そういう状況でした。何でか「10」だということ、斑目さんがそうおっしゃったという話がありました。でもって、なるほど、名古屋の私の知っている教授などにも電話しましたよ。

「10」まで降りてきたのだけれど、それでどうだろうと。「いや、『5』まで頑張ってほしい」「分かった。もうひと踏ん張りしてみる」、そういう話をしていたのです。次の日に、突如「20ミリ」で発表があったのです。私たち自身が「青天の霹靂」でした。

で、どういうことかと、慌てて調べてみました。そうしたら、県がザーッとモニタリングをやって、校庭なんかの線量を測った。それを、文科省が選ばれた五十数校、これは問題だね、という五十数校があったのですか、これをもう一度やり直しをしてみた。で、その数値のデータを取り寄せました。

そうしますと、10ミリということにしたら、ほとんどの学校は再開できなかったのです。リストにあった、五十数校が。ところが、20ミリにしたら、全校再開できる。つまり、学校を再開するという「現実」を作らなければならない。

そうすると、10ミリだったら、再開できない学校が多くなり過ぎる、福島は危ないということになる。これは、さき程、宍戸さんが、県庁が何を命令していたか、とおっしゃった。その全く、コインの裏側のことで、私たちが、少なくとも10ミリまで持っていったことは、一瞬にして、20ミリという形でひっくり返ったということです。

で、国会から見てますと、県の声、或いは市長の声は、地域の声ということになってしまうのです。「地域の声」を無視するわけにはいきませんというのが、実は、その当時の文科省のいい訳であったりしたということだったのです。で、それを防ぐためにこの法律は作られたということだけ、皆さんには覚えておいていただきたいと思います。

つまり、皆さんには「知る権利」がある。被災者全員に知る権利がある。情報の開示と言うものは、明らかに求めています。そして、セシウムだけではない、ベータ線等を出す核種についても測れということが、はっきり書かれてあります。「予防原則に立て」ということが書かれています。そもそも、科学的に因果関係なんか確定できないのだということが最初に書いてあります。

ですから、今、甲状腺がんについて、科学的に放射性物質が原因だということは「確定」できません。そうでしょうよ、始めから、そうだろうと、私たちも言っています。科学的に確定できないからこそ、安全の側に立ちましょうというのが、この法律の趣旨です。ですから、もし、問題だ、問題でないとおっしゃるのであるならば、この放射性物質が、甲状腺がんの原因ではないことを証明する必要性が国側にはあるのです。

私たちは、どうせ確定など出来ませんよ、と始めから言って、確定できないけれど、色々な処置をとらなければいけませんよ、医療対応しなければいけませんよ、逃げたい人がいたら、逃がさなければいけませんよ、支援をしなければいけませんよ、ということを書いたのです。

ですから、そこで、原因が確定できませんと言う発表があったら、原因でないことが確定できているのですかと、皆さんは質問し返さないといけないということなのです。で、この法律、出来てしばらく経って、今見て、役に立っているのかなあと。作った当人として、思うことがしばしばあります。

では、何が足りないのだろうか。これからは、厳しい事を申し上げますので、どうぞ、皆さん、受け入れて下さい。私は、この国は長い間大国で、先進諸国だと思ってきましたが、中国が大国であっても先進国だと、私たちがあまり思わないと同様に、基本的人権について、個人と言うものの尊厳について、私は認められていると思いません。

そして、被害者が他の被害者を束縛する、非難するというような形で、みんなが地域を分断してはならない等と言うもとに、「地域主権」があるのではないのです。国民1人1人に主権があるのです。憲法にそうなっております。

ですから、13条で、1人1人に「幸福追求権」があって、その「幸福」が何であるかを決定するのは、その人にしかできない事であるから、だから、この法律では、個人個人が決定してください、その決定がどの方向であっても、国は支援しなければならない、ということを書きました。

残念ながら、当事者力、主権者力というものが、この法律を利用していって頂くところについて行っていないというふうに思っています。基本的に、例えば、労働法は、労働者の味方であります。ブラック企業がなぜこれ程はびこるか、といえば、法律を知らない人が多過ぎる。自らを守ってくれる法律を使える人が少なすぎる。
その事実に基づいて、ブラック企業は、やりたい放題をやっております。

「子ども被災者支援法」は、私たちが心を込めて作りました。今考えて、では、どう変えられるだろう、私もしばしば考えるのですが、やはり、あの時点ではあそこまでしか作れなかったし。そして、やはり私は、個人の主権、幸福の追求権、主権者としての立場を返すという、そもそもの思いで作った、その基本的な考え方が間違っていたとは思えないのです。

でも、その為には、やはり私たち、教育者として間違ってきた。都合の良い子ばかりを作って、言いなりになる子ばかりを作って、しっかり覚える子ばかりを作って、批判的に考えること、科学的に、分析的に考えること、自分で当事者として決断をする主体であること、そして、行動できる主権者であること、そういう教育をしてこなかったのだと。

いま、私は大学で新たに、細々とではありますけれども、当事者力を持った、そして、自己の尊厳と言うものに、プライドを持った、未来に対する責任感を持った、主権者の育成をしてまいりたいと思って頑張り始めている所です。本当に、これが私の懺悔です。どうもありがとうございました。


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by azarashi_salad | 2015-10-31 22:21 | 政治 <:/p>

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